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へべすの歴史

江戸時代末期(天保・弘化年間)に老農 富高西川内の長曽我部平兵衛が山中に自生する木酢(へべす)を発見。その後、この地区に広まり、根付き、娘を嫁がせるときには、必ず平兵衛の苗木を持たせることが習慣的に行われた。

明治時代末、児玉善太郎がみかん園を一部、へべす園に替えて栽培。

昭和5年、富高本谷17歳の青年 へべすの先駆者 河野城一郎がへべすの本格的栽培に取組む。姉が嫁いでいる西川内の長曽我部家には、へべすの古木(樹齢100年)があり、十五夜のころに新町にへべすを持っていくとよく売れるとの言葉を聞いて、ほ木をもらって栽培を決意。台木を植え、接木をして栽培した。なかなかつがらず、2,3年わらをして、寒害に備えた。当時植えたへべすがまだ残っている。戦争へ出兵を経て、栽培を再開。当時、延岡、日向の市場では高く売れた。苗木づくり、栽培研究には大変苦労され、収量増加に努めた。そこには日向の固有種・特産を守りたいという熱意があった。
(昭和26年、初代市長三尾良次郎がへべす特産化構想を打ち出すが、県の策定した果樹振興基準に合わず、実現せず。)

昭和47年、市・農協は、へべす振興に力を入れはじめる。この時、本格栽培をしていたのは、河野城一郎だけで、栽培面積は1haに及んでいた。

昭和50年代に入って、市農林課でプロジェクトチームを立ち上げた。

このころから事業に取り組み、面積の広がりを見せだした。業者に苗木栽培委託、元市職員黒木三郎は県外市場にも出荷を試みた。

昭和54年、へべす生産者協議会発足。黒木三郎会長、河野城一郎副会長。参加者は20人にも満たず、前途多難の感があった。

昭和56年、へべす振興検討委員会が開かれ、新ネーミング公募の末、「サンズ」に名前を変更し、大々的にPR・販促が開始された。しかし、すでに他で名前を使われており、年間100万の使用料を払っていた。使用料増額を懸念し、平成に入って名前をへべすに戻す。

昭和60年代には、栽培面積倍増、国道にサンズPRの広告ベルト設置、毎年首都圏を中心とした都市部デパートへ市・JAが販促活動を行った。

平成初めまでは、単価は割りと安定していたが、その後、栽培面積・収量が増えるにしたがって単価が下落し、地域的盛り上がりも薄れて行った。

近年、かなりの金をつぎ込み、へべすの貯蔵試験が行われた。結果、貯蔵はある程度は可能ではあるが、かなりの費用を要し、費用面で折り合わないという結果である。

平成17年4月 昭和50年代のへべす振興当初から栽培・振興に貢献してきた成合利勝氏が亡くなる。昭和50、60年代の盛り上がり、平成に入ってからの衰退と父の特産維持に対する思い・苦労を見てきた息子 利浩は父の思い(へべす園)を受け継ぎ、特産維持を決意する。